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荒マン日記
   (1988年発行)より


(管理について参照)


 前書き

 山口大学移転問題で、この山口市平川に話題が持ち上がったのは、昭和三十九年(1964)のことでした。やまぐちのチベットと言われた平川は、椹野川の流れに姫山をいだき、山の彼方には中国山脈の流れに一際そびえる方便山を眺めることができます。大学移転にあたり、数十軒の立ち退きに七十町歩に及ぶ山林・田畑が買収されました。その時、平川地区に大学移転対策委員会が設けられ、農家の犠牲的精神に満ちた並々ならぬ御努力がなされました。父(亦野一郎)も移転対策委員として随分骨を折りました。父の葬儀の時、元山口市長兼行さんの弔詞に「大山口市のいしずえを築いて下さいました。」という一節がありました。一生人の世話をした父の佛前で感無量の涙を流しました。
 山口市中心部の大学移転跡地には、市役所・市民館・美術館・博物館等が出来上がり、学都山口にふさわしい街並になっています。
 また、大学移転に合わせて親鳩会(下宿組合)を創ったのも父でした。創立当初の親鳩会は、学生さんの下宿が足らず他地区まで走り回って下宿を捜して差し上げたものです。そんな父の苦労をしていた姿は今も、目の前に大きく小さく浮かんでまいります。 
 私はすぐに下宿を作りました。私には三人の子供が居りましたので、子供達が成長して大学に行けば人様の御世話になりますので、人様のお子さんも御世話して差し上げたい気持ちと、子供の大学進学の為の必要経費の足しにでもと言う気持ちからでした。山地が買収されましたので、そのお金を元手に下宿を作ったのです。八部屋ありますが、横に長いことからその頃の下宿は「ハーモニカ長屋」と云われておりました。
 昭和四十二年(1967)に下宿を作ってからの二十年間の下宿の様子、学生さんの変貌を書き始めてみました。下宿を始めてから全員の思い出が、その人その人にあります。私の子供は小中学生でした。学生さんによく可愛いがっていただきました。今では孫が、いろいろ遊んでもらっています。私にとって学生さんは、家族であり息子も同然です。社会に巣立ち、社会人として社交性もあり根性のある、責任感も強くそして思いやりのある心温かい若者になって欲しいと、下宿生の面倒を見てきました。そして、下宿生は卒業し就職してもくじけそうになった時は、電話をかけてきたりします。また、鋭気を養うために山口に遊びに来た時には、「又頑張って。」と言って、励ましております。            「同じ釜の飯を食う。」と言う言葉がありますが、いろいろなつながりが何時までも続いて、みんな仲良くして欲しいと思います。この本を読まれて「馬鹿みたい。」とお思いの方もあるかと思います。私は文才がある訳もなく、女学生時代は動員学徒で勉強もしておりません。文章もはずかしい限りですが、私の若者に対する気持ちをくみ取って頂けたらと思います。
 二十年間の歳月は早いものですが、下宿はマンション化されバス、トイレ付きとなりました。物資、食べ物は豊富になりましたが、人間の心はむしろ反対になっていくように思います。そうして、甘ったれ、巾のせまい、前しか見えない、努力しようとしない新人類が増えて行くのではないかと思います。私は世のお母様方に、子供に向ける目を、もう一度見直して頂きたいと思って筆を取りました。私の家に下宿していた学生さんは社会に出て就職しても、ピカ一に輝いて荒マン根性で頑張っています。そんなたくましい姿の学生時代には、こんな事もあったという数々の思い出を綴ってみました。
 そしてまた、世代の断絶が、大きい社会問題になり人間関係にもいろいろなひずみが出ている現代、二十年にもわたる私の「荒マン日記」が、多少でもお役にたてばと思っております。